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《遼陽の今昔観》会日语的请进

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发表于 2008-11-17 10:55:11 | 显示全部楼层 |阅读模式
这是一位从日俄战争开始在辽阳生活了十三年的日本人于1917年写的一篇回忆文章,刊登在了《満州日日新聞》創刊十周年記念号上,这篇回忆文章真实纪录了辽阳当时情况,对于辽阳地方近代史研究有一定作用。中国记忆论坛藏龙卧虎,恳请会日语的网友能给翻译一下。谢谢!
遼陽の今昔観満州日日新聞 1917.10.31(大正6)1.gif
 楼主 发表于 2008-11-17 11:03:56 | 显示全部楼层
満州日日新聞 1917.10.31(大正6)

遼陽の今昔観


草分の一人某氏談


       本紙創刊十周年記念号を編むに方り在遼十三年即ち日露戦争未だ斂まらざる三十八年夏以来引続き居住する民間有力者某氏を訪い懐旧談を求む(W生)


十年夢の如し


        ハア、もう十周年ですか、夢のようですな僕に何か話せって?それは君の方が詳しいジャありませんか、難題は止して呉れ給え(と謙遜して語るらく)

大陸発展の機関紙


   貴紙の第一号を発刊されたは忘れもせぬ四十年の天長節十一月三日で吾輩は其初号から一回も休読せぬ愛読者の一人です、爾来十年、不断の努力は遂に殖民地稀に見る大新聞となり大陸発展の機関紙として穏健なる発展を遂げられつつあるは喜ばしい次第です

旗亭は減っても


     此間に於ける遼陽は進歩乎退歩乎其見方によって異るであろう、戦後創匆の所謂火事泥的在留者の多き当時は成る程景気もよかった、料理屋なども多かった、今は十軒内外の旗亭も当時はザット三十軒もあった、芸酌婦も今は百二三十人であろうが、四十年頃は三百人近くいた、それが相当に売っていたのだから如何にも盛んなものであった、けれどもそれは泡沫的であって所謂槿花一朝の夢であった、吾輩は此旗亭の数字に現われたものを以って退歩とは云いたくない、寧ろ健全分子の多くなって真摯なる発展を遂げつつあるものと信じたい

種々の人物


   四十年十一月と云えば、慥か豪放磊落なる鮫島将軍が第十四師団を率いて去り今の台湾総督安東将軍が姫路師団を引具して来た交代後間のない頃であったと記憶する、時の領事は支那通の速水一孔氏で之又小事に拘泥しない放胆な人、警務署長は現大連警務係長田中剛輔さん、満鉄会社遼陽出張所長は今奉天にいる神谷さんだったか小数賀さんだったか能く記憶しないが兎に角民間にも正金の中村得三郎君だの向井竜造君だの海南右門君だのが可なり幅を利かせていたものだネ、当時警務署に荒井という甲州人の通訳生兼警部がいた、東洋協会出身だが文筆も達者なので、守山吐虹先生から、入社の交渉を受けたと云っていた、此人今は外務書記生で南支辺に居る筈だ貴紙の取次販売は永浜という人が初めてのように思う、通信も二三人替ったがモー君が七年になるかネ、お互い年の老るも無理はないジャないか…

当時は城内


    現今では附属地が盛で城内は秋風落寞(法人在住者)の感はあるが当時は正反対で有力の商店や料理店は皆城内にあったものだ、附属地に於ける道路も其頃は単に人馬が通行するという丈けで一度雨でも降ったら惨憺たるもの日本町なんかも相対した向側へ渡るにも命懸けサ、馬車が覆没して馬が泥の中で往生して了ったなどということも全く嘘のような事実談、無論水道もなし其所此所の井戸水を難有く頂戴していた、学校病院又然りで満鉄病院は其年の暮れに漸く急造のバラックが出来上り、学校はロス家屋に応急の修理を加えたものを用い生徒の数も百名余りに過ぎなかった、

公園に馬賊\


     物騒な事には其頃馬賊\が白塔公園附近や憲兵隊の前の大街などに、チョイチョイ現われ、殺人騒ぎを演じたものだ、ナニ花柳界の変遷、コイつは小生元来の無粋者、あまり存じていないよ、けれども一流所の玉家や満洲ホテルが城内にあって全盛を極めた事は記憶して居る、其後玉家は梅陽軒という西洋料理屋の跡を買って城外に出で満ホは大火で焼け出された、遼塔ホテルは最初から附属地だが当時は旅館より料理屋が本業で此外に大島将軍の御気に召した芸陽館というのがあり今の宝湯経営者梶山八重さんが能く勉めたものサ、八重さん今昔の感に堪えまい、今は一廉の細君となり済ましている連中で越郎を迎え、呉客を送って枕の塵を払い後朝の別れを惜んだなんていう旧善や旧悪も多々あるが之は遠慮して置こうよ

十年以上居住者


遼陽にも十年以上引続き居住して居るものは少くないが三十七年以来腰を据えているものは事実三十名内外であろう、尤も之は門戸を張っているものに就ての言だが、先ず其重なるは石光洋行、林洋行、山本薬房、杉本活版所、近賞堂、金升洋行、時枝質店、丸山当舗、川上商行、木村遼ホ、城水遼塔軒、西野玉家、上松満ホ等で更に日露戦争の二三年前からいるという□子山写真等が著しい方だろう、今は一流の成功者という西村君なども其頃はまだ名もなかった呉服の一行商に過ぎなかった、由来遼陽に大成金や大実業家が現われないのは一に遼陽其ものの地理的関係ではあるまいか、目下大連一イヤ満洲一の長者と謡われている森上君や。方外軒に納まって駄洒落や警句を連発している加茂君や、百万円会社の満洲皮革社長に擬せられている向井君や奉天で新進実業家の仲間入りをして居る西尾、西巻君なども遼陽の出ではあるが之等の諸君は畢竟遼陽を狭しと感じ去ったもののように察せられる斯うなると遼陽其ものの天地が小さいという事に帰着するワケか、遼陽人士たる者大に発奮せざるを得ぬネ

堅実な前途


    而し今も尚遼陽は師団所在地として或意味に於ては満洲の雄であらねばならぬ、橘中佐で名高い首山堡や千年の歴史を語る白塔を眺めて是が遼陽の誇りであるなどと徒らに骨董自慢ばかりしてはいられない、東洋一の製鉄場が出現しても此所に供給を仰がねばならぬという『太子河』の天恵もあるではないか、此の地此の水を利用して何か殖産興業を起すことに研究を怠ってはならない、ソーレ鞍山鉄鋼という無尽の宝庫が開かれて十万人を容るるという新らしい理想的の都が直ぐ目と鼻の間なる立山に出来つつあるではないか、そこに愈々すべての機関が具わったら遼陽はどんな現象を呈するか、悲観、楽観両説はあるが、保守は畢竟退嬰を意味する、道路がよくなり電灯が点き、学校が完備し、病院が整備するからってそれが必ずしも発展ではない、師団も幾年かの後には北の方へ奪われぬとも限らない、満鉄工場が奉天へ移らぬとも保証は出来ない、既往の十年間は兎も角外観上稍進歩の跡はある、が今後満州日日新聞が二十周年三十周年を迎えるの秋今の遼陽はどんなに変化して行くか、之は確かに一の謎である、吾輩は洋銭や、モヒや、相場やで一攫千金を夢みる連中を羨ましいとは思わぬが、此遼陽をして将来ある真の南満枢要都市として発展せしめたい、是れ必らずしも我田引水の愛郷心に執着するばかりではない云々
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发表于 2008-11-17 11:13:32 | 显示全部楼层
基本上看不懂 [s:4]
发表于 2008-11-18 15:48:37 | 显示全部楼层
学的是英语,可惜看不懂啊 [s:8]  [s:4]  [s:6]
发表于 2016-5-8 22:16:19 | 显示全部楼层

RE: 《遼陽の今昔観》会日语的请进

老襄平 发表于 2008-11-17 11:03
満州日日新聞 1917.10.31(大正6)

遼陽の今昔観

遼陽今夕

引自草根某人

       本刊创刊10周年纪念号编辑之际,约在遼十三年即日露战争末期战事收敛之际明治 38年夏天以来,一直居住在辽民间名士某人怀旧访谈(W)

10年如梦

        啊是已经10周年了,像做了个梦一样,要谈什么话题?这方面你不是很清楚么,不要对我出难题啊(谦逊语)

随著大陆发展机关报

从未忘记贵报的创刊号即明治40年长节11月3日,作为初号以来一次也没落下忠实读者以来十年,经过不断努力,伴随殖民地不断发展成为罕见大报刊看到机关报稳健发展很高兴。


即使旗亭(泛指打出幌子的饭店,旅店)不断减少
     这个期遼陽,进歩乎退歩乎于其着眼点有许多不同的看法。对于戦後匆忙而来的在所谓战火疮痍之地发展的侨居者来说是景气的。当时的(本地)饭店有30家现在有10家左右旗子亭。现今艺妓侍女约有123,而当年有将近300个,在明治40年左右。在当时很繁华,做什么生意都很昌盛。可那是犹如昙花一现的泡沫状态。我并不想说现在的(旗亭)数字是退步了,相信它们会稳定健康的发展。

种种人物


   明治40年11月,粗犷豪放的鲛岛将军带领第14师离曾经的台湾总督安东将军率领姬路师团前来替防还记忆犹新。当时的领事是不拘一格的中国速水一孔。当时警务署长是現大連警務係長田中剛輔満鉄会社遼陽出張所長今奉天神谷。 小数賀不能忘记,总之希少的民间企业正金(银行?)
中村得三郎君,向井竜造君,海南右門君活跃在各个领域。在警署勤务的荒井警部兼做甲州翻译。但是因为精通文笔所以据说受守山吐虹先生之托进入公司,现在外交书记并且应该南支辺。从那个永浜贵报代办销售开始。通讯编辑也替换2,3人。认识你也几经7年了。我们都老了,做事就不要那么拼了。。


当年城里

    现如今附属地昌,而在城里有如秋風般落寞(元居民)感觉但是当年正相反。规模大的商店,旅店全在城里。附属地其道路只能通行单人车马。一旦下雨是一番非常
凄惨的景象。以至于到对面的日本町是一件生命攸关的大事。车、马常陷落于泥泞之中现在说来让人难以相信。当然没有自来水井水到是各处都有。学校病院、医院,设立于临时赶造木板房并终于那个年底建成。学校是利用无人废加以应急修理改造的学生数量只不过是不超过100名。

公园土匪(看来白塔公园当据点的传统一直延续挺多年)

     危险事情那时土匪\公园附近或者宪兵队前面的大街上时不时的出,杀人越货的事件时有发生。现如今变成花柳界。鄙人本来粗陋寡闻,诸事不闻。但一流地方如玉家满洲旅达到全城餐饮业的全盛的巅峰还是记得的。之后玉买下杨梅轩
这个西菜馆旧址搬出城外而满洲旅店毁于大火。遼塔酒店(石原密谋918的饭店?)从最初开始附属但是当时饭店是从业旅馆正业。此外还有大岛将军中意现在的宝汤(澡堂子?)经营者八重在经营。八重过还是一如既往的坚忍。现在出色妻子一同努力,迎来过客送走人(吴大概通指华人),不管昔日,犹如清晨之枕边浮尘被轻轻拂去。(这段比较文艺,翻译不出精髓)

超过10年居住者

遼陽超过10年居住者但是自明治37年以来专业如一的大概在30名吧。对于著名门户而,首当其冲的是石光洋行洋行山本药房杉本活版(印刷)、近賞堂、金升洋行、時枝質店、丸山当舗、川上商行、木村遼旅店、城水遼塔軒、西野玉家、上松满旅店等,日俄战争二三年之前就是X子山摄影的著名景点。现在的享誉各界的商户西村君当时只不过是一介无名的和服店主。暴发户以及大实业家出现是因为遼陽其东西地理特不无关系。现今被南面大连第一或可以称赞为满洲的第一百万富翁森上君及被外方轩收录的双关语以及警句加茂君,及号称万日元公司满洲皮革总经向井理模仿的。被奉天新涌现实业家吸纳成为了朋友西尾君西卷君遼陽出身的。不管回归辽阳的原因是什么,都足以让遼陽人士必须发奋图强。毕竟像你之前的诸位感到遼陽之狭小而离去那样遼陽确实是个小天地。


牢靠前途

    现在遼陽作为师团所在地,必将成为满洲之冠。因橘中佐之名而享誉的首山堡(拉倒吧,俺们唐朝东征到这的时候你们还只会光着屁股抓鱼呢)以及能眺望千历史塔的遼陽并不能只是作为古城而骄傲。东洋的第一制铁出现,需要强大的供给。可以利用"太子河"得天独厚的水运。这不是上天的恩赐么。那么利用地方,展开置产兴业之研究一刻也不能怠慢。钢铁这个无穷大宝库之开发可以容纳10万人的理想之都将被设立于被称为眉眼间隔立山。那么那里设有全部机关的时候遼陽呈现什么样现象。悲观乐观两种意见,总之外観上(基础设施)会逐渐進歩。保守来说道路变好,有路灯学校完备医院设备完整。在北方不被抢走的情况下钢厂会不会向奉天移动也不能保证。根据过去10年之经验。基础设施之进步是有迹可循的。将来满州每天日20周年30周年到来之际遼陽是个什么状况还是个谜。我是一点也不羡慕那些在金融以及吗啡以及外汇交易中一夜暴富的犹如灌溉我心田乡之执着之心忠心希望遼陽真正发展成南满之要冲。




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